第4話

 幸いボールは見つかったが周囲に木々が繁り少々打ちにくそうだ。
 木立の間からグリーンの端が辛うじて覗いている。
 グリーンまでの距離は80メートル程度あるだろうか。
 先程まで見えていた望月夫妻の姿が木の陰になって見えなくなっている。

(どのクラブを使えば良いのだろうか…)

 まりあがクラブの選択を迷っていると、彼女の心を見透かしたかのように車本が声を掛けてきた。

「阿部さん、アプローチウェッジは持ってますか?」
「え~と…これですか?」
「そうそう、これです。100メートル以内のショットで使うクラブは、ピッチングウェッジかサンドウェッジが一般的ですが、ここはアプローチウェッジで攻める方が良いと思いますよ」
「はい、分かりました。ウェッジと名前がついているクラブだけでも色々とあるのですね」
「ええ、結構ありますよ。バンカーから抜けるためのクラブがサンドウェッジで、グリーンの周りからグリーンを狙うクラブがピッチングウェッジです。それから、今阿部さんが持っておられるクラブがアプローチウェッジと言って、ピッチングではグリーンに届かないけど、9番アイアンでは打ちにくい、という時のためのクラブなんです。あと、グリーンの近くから高く緩い球を打つためのロブウェッジというのもあります」
「まあ、本当に種類が多いんですね。私、覚えられないわ」
「はっはっは~、一度に覚えようとしなくてもいいですよ。使う時に『このクラブはこんな場面で使うんだ』ってひとつずつゆっくりと覚えればいいんだから」
「分かりました」
「じゃあ、早速構えてみてください」
「はい……」

 まりあはグリップをしっかりと握った。

「あ、ちょっと肩に力が入り過ぎてますよ。もう少しリラックスして。え~と、このように……」

 車本はためらうこともなくまりあの腕をつかみ、スイング時の肘のポジションを指導した。
 レッスンコーチが生徒を指導する場合、素肌への接触はやむを得ないことと言える。
 まりあも特に気に留める風もなく、車本の指導どおりにフォームを修正しようと試みた。
 次の瞬間……

「えっ…!?」

 車本は素早くまりあに身体を寄せ瞬時に唇を奪ってしまったのだった。

(うっ……)

 それはほんの一瞬のことであった。
 まりあの唇を強引に奪った車本だが、どう言う訳か行為をすぐにやめてしまった。
 待機している望月夫妻が気にかかったのか、それとも「神聖なゴルフ場を汚してはならない」と言うプロとしての意識が脳裏をよぎったのか、それはまりあには分からなかった。

「阿部さん…ごめんね……。阿部さんを見ているとついキスしたくなっちゃって……」
「……」

 まりあはまるで狐につままれたように呆然としていた。
 一瞬のことではあったが、その衝撃はあまりにも大きかった。
 夫との結婚後いつしか忘れていた胸のときめき。
 遠い記憶の彼方に置き去りにした熱い想いを、車本の唇がよみがえらせた。
 まりあはクラブを持ったまま立ちすくんでいた。

 あまりに時間を費やして望月夫妻が変に思うといけないので、車本はさり気なくまりあにスイングを促した。

「阿部さん、じゃあ、打とうか」

 車本の声で我に返ったまりあはクラブを握り直した。

「あ、そうですね。望月さんたちが待ってらっしゃるものね」

 まだ表情に硬さは残っていたが、まもなくまりあはスイングの動作に入った。

「木の枝は意識しないでグリーンだけを見るようにね。慌てなくていいよ。しっかりと球を見て確実にヒットすること」
「はい……」

 クラブが弧を描いた。

(カキ~ン!)

 アプローチウェッジによって放たれたボールはグリーンに向かって真っ直ぐに飛んでいった。

(ポトン!)

「ナイスオン!」

 まりあが打ったボールは見事にグリーンを捉えた。

(コロコロコロ……)

 グリーンに乗った後、ボールはフラッグに向かってまだ転がっている。

「もしかして入るんじゃない!?」
「まさか……」

 まりあと車本は球の行方に目を凝らした。
 望月夫妻もじっと見つめている。

(コロコロコロ……)

「おおっ!」
「え~!?」

(コロコロコロ……コロ……コトン!)

「すごいっ!入ったぞ~~~!阿部さん~、入りましたよ~!」

 当のまりあよりも車本の方が興奮している。
 望月夫妻も拍手している。

「阿部さん、やりましたね~!」

 車本はまりあに握手を求めた。
 まりあは満面の笑みを浮かべて握手に応えた。

「ありがとうございます!でも信じられないわぁ~」
「もしかしてキス効果?」
「嫌ですわ、聞こえたらどうするんですか……うふっ…」

 まりあは照れてみせた。

 その後、和やかな雰囲気のままアウト9ホールを周回した4人は、クラブハウス内にあるレストランで昼食をとった。
 話題はもっぱらあの見事なまりあのロングチップインに集中した。


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