車井先生お元気ですか?大変ごごぶさたしております。
 惠です。
 大学を卒業後、季節が巡りまた夏がやって来ました。
 田舎の高校の教壇の生活に慣れましたが、最近はピアノを弾くことも少なくなりました。
 先生は以前のようにシューマンをまだ弾いていらっしゃいますか?
 私のことをクララみたいだとおっしゃってくださったことが最初の出会いでした。

 あれは夏休みも終わりに近づいた土曜日でしたね。
 私の下宿に来てくださったあの日を忘れることはないでしょう。
 先生が持ってきてくださったモーツァルトのCDを聞きながら自然と結ばれました。
 ピアノコンチェルト20番 ニ短調 K466。
 その時はわたしは内田光子さんの版しか知らなかったので、アシュケナージ版の優しい響きはまるで違っていました。
 先生の音楽の優しさそのままでした。
 まるで音楽に酔うように私は先生に酔っていきました。
 今だから言いますが私は初体験ではなかったんですが、男の方に酔ったことはありませんでした。

 先生が「あっ、2楽章だね」と突然私の上で動きを止めたのを思い出します。
「ここがいいんだよ」とリズムをとりながら……。
 先生ったら私の中で指揮棒を振るみたいにリズムをとるからおかしくて。
 あのフレーズ忘れません。
 だってフレーズに合わせてピクピクって先生の指揮棒が私の中を叩くんですから。
 私もピクピクって返してしまいました。
 その間、私に体重を掛けないようにしていらっしゃったのも知っていました。
 優しく髪を撫でてくださって、2楽章を結ばれたままじっと聞きましたね。
 レースのカーテンが揺れて、陽射しが天井に乱反射していました。
「君も天使みたいだ」っておでこにキスをしてくださいましたね。

 そのうち腰全体で柔らかなリズムをとって、私とどんどん深く結ばれていきました。
 先生はすごく指揮棒が大きい方なのに、とろけるように私と一体になっていく感じが不思議でした。


 存在が分からないんです。
 ゆったりとしたロマンスのスピードに合わせて先生の音楽を聴かせてくださるのですが、先生と私の心が一つになって音楽を奏でているみたいでした。
 ピアノとオーケストラが一体になるみたいでした。
 モーツアルトの音楽にのりながら私たちは別の世界に運ばれていくのです。
 全てを忘れて天使の音楽が私の身体の中を響いていました。
 このまま時が止まって欲しいと強く思いました。
 そこから先は甘美な世界の中で気を失ったみたいです。
 何にも記憶にありません。
 初めてのことでした。

 ふっと気がついたら先生がじっと優しい眼差しで私の顔を見ていました。
 私を甘美な世界に運んでくださった時の指揮棒の大きさを今でも憶えています。
 いいえ、忘れられないと言った方がいいでしょうか。
 先生も一緒に来て欲しい気持ちから、先生の手を払いのけて指揮棒にいけないことをしたことを今は後悔しています。

 でもどうしても一緒に来て欲しかったんです。
 ちょっと苦かったけど先生の天使のようなお顔を見て、また私も甘美な世界の余韻に浸りました。
 その後もCDをリピートするみたいに何度も音楽を聴かせてくださいましたね。
 私はその度に甘美な世界に運ばれ、芸術の素晴らしさに初めて触れました。

 あの天使のような先生の音楽をもう一度聞きたいというのはわがままなお願いなのでしょう。
 奥様がいらっしゃる方ですし10年早く生まれたかったと何度も思いました。
 別れるときは涙一つ見せなかった私ですが、1年たって本当に先生に会いたい。
 モーツアルトを聴く度に今でも涙がこぼれるのです。






〇 参 照 〇
モーツァルト/ピアノ協奏曲 第20番 ニ短調 K466 第1楽章
モーツァルト/ピアノ協奏曲 第20番 ニ短調 K466 第2楽章
モーツァルト/ピアノ協奏曲 第20番 ニ短調 K466 第3楽章

























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