第8話「発車のベル」

 もえの胸に熱いものがこみ上げ、視界がぼやけた。
 堰を切った滴はとめどなく頬を濡らし流れ落ちてゆく。
 好き合っていても別れなければならない場合がある。
 もえは工藤の胸にピタリと寄り添って甘えた。
 最初で最後の甘えんぼう。
 できることなら時間よ、止まって。
 だけどそれは空しい願いと分かってる。

「もえ、ごめんね。こんなこと……してしまって……」
「え?どうして……?どうして謝るの?もえは先生が大好きだからすごく嬉しいの。先生とこうなれたことが……」
「僕も嬉しいよ。でももえは遠くに行ってしまうから、やっぱり寂しいよ……」
「先生!そんなこと言わないで!きっと先生に会いに帰って来るから!夏休みはバイトして電車賃作るんだから!」
「もえ……」

 工藤は健気で意地らしいもえを心から愛しいと思った。
 できることならもえといっしょに関西に行きたいが、教職と言う立場がある以上それができない。
 会話が途切れて、二人に沈黙が訪れた。
 重苦しい雰囲気を一掃しようと最初に口火を切ったのは工藤だった。
 
「さあ、もえ、翻訳するぞ~!」
「あ、そうだった。あはは、先生に翻訳を手伝ってもらいに来たのに。すっかり忘れてたぁ。あははははは~」

 もえは明るく笑ってみせた。
 目頭には涙の跡が残ってる。

「ははは、忘れるやつがあるか~?それが目的だったんだろう?」
「でも先生だって、もえにこんなことを」
「いやあ、それはだなあ。ははははは~、さあ、がんばろう~!」
「あっ!先生、ごまかした~。ズル~」

 一転してふたりを包む空気が桜色に変わった。
 工藤がもえの身体から放れた瞬間、装着していたスキンが外れてしまい、中に溜まっていた乳白色の液体がこぼれてもえの太腿を濡らしてしまった。、

「あっ!しまった!すっかり忘れてた……」
「もう、先生ったらあ」
「ごめんごめん」

 工藤はもえの太腿をティッシュで拭いてやりながら照れ臭そうに笑った。

「先生って案外間抜けなんだ~」
「なに!?間抜けだと~!こら~~~!」
「だって~」
「そんなことを言うと罰としてもう1回エッチしちゃうぞ~!」
「ええ~!?してして~!」
「ん?マジで?」
「うん、まじで」
「よ~し、今度はもっと激しく襲っちゃうぞ~~~!がお~~~!!」
「きゃあ~~~!」

◇◇◇

 それから3か月後のある朝、もえは駅のプラットフォームに立っていた。
 ついに大学進学のため故郷を離れる日がやって来たのだ。
 プラットフォームにはもえを見送る家族の姿があった。
 そしてプラットフォームの端に1人の男性が立っていた。
 発車のベルが別れの時を告げた。
 列車はゆっくりと動き始めた。
 もえは窓の内側から家族に向かって一生懸命手を振った。
 今にも泣き出しそうである。

 列車が少し動き出した頃、1人の男性の姿がもえの視界に入った。

「あっ!先生!!」

 それは工藤の姿であった。
 工藤は手を高々と上げて、力いっぱいに振っている。
 もえも開かない窓をもどかしそうにしながら、窓の内側から一生懸命手を振った。

「先生……工藤先生……きっと帰ってくるからね……」

 瞼から涙がはらはらとこぼれ落ちた。
 列車がプラットフォームから離れ、工藤の姿が見えなくなった。
 もえは座席にうずくまり泣き崩れてしまった。

 プラットフォームには1本の桜の木があった。
 開花はまだ少し先だが、小さな蕾がほころんでいた。
 蕾は早春の風を浴びて朝露がぽたりと落ちた。






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