第四話 お万ヶ淵

 この土地では、昔から嫁入りする女は婿の家へ行く途中、化粧するのが習わしだったのだ。
 お万もそのことを知っていた。
 お万は歩いた。
 維盛が歩いたあとを夢中で追い掛けた。

「ああ、維盛さま…、維盛さまは本当に私を残して逝ってしまわれた。維盛さまのおられぬ今となっては、もはやこのお白粉も要りませぬ」

 お万は、以前、維盛とよく魚釣りをした場所まで来ると、手に持っていたお白粉を投げ捨てた。

 そしてしばらく歩いてまた立ち止まった。

「維盛さま、紅をつけてあなた様の元に行きたかった……でもそれは夢……もはやこの紅も要りませぬ」

 そういって、手に持っていた真っ赤な紅を、川に向かって投げ捨ててしまった。

 もう、お万には何も残ってなかった。
 歩いて歩いて歩きつづけた。
 そして、お万はふと足を止めた。
 目の前には、深い深い淵があった。
 秋とは言えど、常緑眩しい深い淵を、お万は覗きこんで、小声でささやいた。

「いとしい維盛様……生きてあなたと添えぬなら、死んであの世で添い遂げたい……」

 お万は草履を揃え、崖っぷちに立った。
 眼を閉じて、手を合わせ、大きく息を吸い込んだ。
 そして、とうとう身を投じてしまった。
 お万は美しい髪を風になびかせ、真っ逆さまに淵の奥深くに吸い込まれていった。
 維盛を思うお万の気持ちが、あまりにも強かったからであろうか。
 不思議なことに、お万が紅を投げた淵は、今でも岩全部真っ赤で、川まで赤くなった。

 そして、お白粉を捨てた淵は、あたり一面、お白粉を塗ったように、白い白い岩になった。
 いつの頃からか、村人は、この赤い淵を『赤つぼ』、白い淵を『白つぼ』というようになった。
 そして、お万が身を投げた淵を『お万ヶ淵』という。

 それはそれは凄い崖っぷちで、今でも側に近寄る人はいないと言われている。
 だが、まれにそばと通った人の話によると、たとえ事情を知らなくても、無性に物悲しくなり、涙が出てくると言う。
 それがしが訪れたときも同様でやはり涙が止まらなんだ。

 お二人が黄泉の国で仲睦まじく暮らされんことを、ただ祈るばかりでござる。






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<後記>

龍神温泉は紀州和歌山の山奥、日高川の上流にあります。
紀州徳川家の別荘でもあったここは1200年の歴史があるそうです。
泉質は無色透明の重曹泉で、群馬/川中、島根/湯ノ川とならび日本三大美人湯のひとつに数えられます。
お湯につかるとぬるぬるしますが、湯上がりはしっとり、肌はすべすべになります。
日本三大美人湯の由来については明らかにされていませんが、1920年に鉄道院によって編纂された
「温泉案内」の中で、「肌を白くする」という効能一覧に、この3つの温泉は含まれています。
機会がありましたら一度訪れてみられてはいかがでしょうか。

Shyrock































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